母になる道は、ひとりで歩かなくていい。女性同士のつながりを生み出してきた産婦人科医・松本裕子先生の歩み


このコーナーでは、世界のさまざまな場所で子育てに向き合う女性たちと語り合いながら、「みんなで育てる」という視点を探っています。

今回お話を伺ったのは、上海で産婦人科医として勤務するかたわら、子育て中の女性たちが安心してつながれるコミュニティ「上海SUKU☆SUKU」を主宰されている松本裕子先生。ご自身も、異国の地で二人の子どもを育てる母です。

医師として女性の身体と人生に寄り添いながら、私生活では母としてときに迷いつつ、人とのつながりを紡ぎ続けてきた松本先生。その歩みを支えてきた「つながり力」と「信じる力」は、どのように育まれてきたのでしょうか。

その道のりを、ゆっくりとひもといていきます。


松本 裕子 先生

出身地:長野県
現在の居住地:上海(中国)
お子さん:長女(高校生)、長男(高校生)
Webサイト:https://shanghai-sukusuku.theblog.me/


―まずは自己紹介を兼ねて、松本先生のふるさとについて教えていただけますか?

私はアメリカで生まれ、長野県の松本市で育ちました。松本市は北アルプスのふもとの小さな街で、自然がとにかく豊かなところです。

子どものころの記憶でとくに印象に残っているのは、小学校の授業中にいつも窓から眺めていた景色ですね。風に揺れるけやきの枝や、空を流れる雲を見ては、「きれいだなぁ」と感じていました。風が窓を揺らすと「自然が怒っているのかな?」と思ったりして、常にそうした意識のなかで生活していたんです。人間の暮らしも自然の一部なんだ、という感覚が自然と身についていました。人生の基礎になっている体験だと思います。

―松本市の自然が心に浮かんでくるようです。そんな素敵な子ども時代を過ごされた松本先生が、産婦人科医という道に進んだきっかけを教えていただけますか?

もともと、まっすぐに医学の道へ進んだわけではありませんでした。大学では理学部に進学し、その後バックパックを背負って国内外を旅するようになりました。いわゆる自分探しの旅ですね。ワーキングホリデーでニュージーランドへ行ったこともあります。そうして海外に出てみると、自分のなかでアジア人としてのアイデンティティが次第に強くなっていったんです。さらに、もともと身体に興味があったこともあり、東洋医学を学んで鍼灸師になりました。そして鍼灸師として働くなかで、もっと幅広い視点から体を見られるようになりたいと思い、30歳で医学部に進学しました。

―とても印象的な歩みですね。まっすぐ一本の道ではなく、旅や迷いも大切にしながら、その時々で惹かれるものに丁寧に向き合ってこられたことが伝わってきます。

その後、36歳で医大を卒業し、長野県の佐久総合病院で研修医になりました。私は手術が好きだったので、もともとは外科医を目指していたんです。それで、いろいろな外科系の科をローテーションしていたときに、婦人科研修ではじめて子宮というものを目にしました。その瞬間、「この臓器だ」と思ったんですね。少し大げさかもしれませんが、宇宙を感じたというか。


子宮を見た瞬間、人生が決まった

―とてもドラマチックな瞬間ですね。数ある臓器を目にしてきたなかで、子宮と出会った瞬間に「これだ」と。ちなみに子宮って、どんな見た目なんでしょうか?

まず、表面全体がうすいピンク色でつるつるとしているんですね。そして子宮本体から卵管がのびていて、まるで羽ばたいているような形をしています。さらに粘膜に覆われているので、ピカピカと輝いて見えるんです。でもサイズはとても小さくて、卵が縦に二つ並んだくらいしかありません。そんな臓器が、骨盤の奥に控えめに、でも確かにそこにあるんですよ。

―まさに情景が目に浮かぶようです。そういうものを目の当たりにしたとき、どんな感情を抱かれたのでしょうか。

「いったい、これは何だろう」という。不思議な感覚でした。実は、私はもともと女性だけを専門に診ようという気持ちはなかったんです。というのも、小さいころから実家にフェミニズム関連の本がたくさんあって、何かしら影響は受けてきたと思います。そのせいか、自分のなかで女性性というものを長く受け入れられない時期があって。でも子宮を見たときに、「女性はやっぱり尊敬すべきものなんじゃないか」という気持ちが湧いてきたんです。ここに生命が宿るんだ、と。これは男性にはないもので、こんなにも美しいんだと。「自分はここに行くんだな」と、その瞬間に思いました。

―子宮という臓器との出会いが、松本先生のキャリアを決定づけたのですね。

はじまりは、そうでしたね。あと産婦人科の良いところとして、一人の患者さんを広く、長く診られるという点があります。外科医だと、どうしても手術を担当して、その後は内科へ戻って診てもらうことになりますが、婦人科なら診断から治療後まで付き合うことができるし、治療をつくして最期をみとることもできる。また産科もあるので、生まれたときから長く関われるなと思って、「これだ」と感じました。

―患者さんの人生の節目節目に、長い時間をかけて寄り添えるところに魅力を見出されたのですね。そうして産婦人科医の道へ進まれ、現在は上海で診療されていますが、今のお仕事内容について教えていただけますか?

現在は、上海市内のパークウェイ医療という医院で婦人科医として勤務しています。また、アメリカンサイノという別の医療機関で産科外来も担当しています。患者さんの年齢層は、小学生から70代くらいまで。生理や乳房の問題、更年期や腫瘍などさまざまな症状を診たり、内容によっては手術も担当します。さまざまな国の患者さんが来られるので、その点も面白いですね。

―素敵ですね。普段、どんな思いで患者さんたちと関わっておられるのでしょうか?

表向きにはあくまで医師ですが、内面では「女性を応援する人」という意識があります。普段はあまり口にしませんけれど。ときどき患者さんや同僚から、「どうしてそんなに親身に話を聞いてくれるの?」と聞かれることがあるんです。そういうときは、女性を応援したいという気持ちが、ちょっと溢れているのかもしれないなと思いますね。

―普段拝見している先生の姿と、とても重なるところがあります。ちなみに医師として働かれているなかで、印象的だったことや嬉しかったエピソードなどはありますか?

さまざまな国籍や年齢の患者さんたちや、同僚の医療スタッフたちと関わるなかで、逆に私自身が支えられていると実感することが本当に多いんです。患者さんたちが治療の過程で生活や仕事上の困難に向かう姿勢から、私自身受け取るものも大きくて。ありがたいなと感じています。

―支える立場でありながら、逆に女性たちから勇気や力を受け取っているという関係性が素敵ですね。では逆に、葛藤を感じることなどはありますか?

医師になるまでは、常に試練や競争のなかに身を置いてきました。だから素の部分というか、うまくできないところや強くない部分まで出してもいいのかな、と迷っていた時期はあります。「先生」と呼ばれてしまうので。でも実を言うと、上海に来たばかりのころはとても困っていたんです。当時、子どもが5歳と3歳。日本にいると周りがいろいろ助けてくれるけれど、上海ではそうもいかない。当時は中国語もそこまで話せなかったし、どうやって生活したらいいのかもわからない。周りの人がどうやって同じ状況を切り抜けているのかも見えない。そんな状態で、もう何もかもに困っていました。

でもある時点から、困っていることも含めて全部さらけ出そうと思ったんです。医者という職業であっても分からないことはたくさんあるし、困ることだってある。だから困っている者同士でつながっていこう、と。しかも単につながるだけではなく、自分が提供できるものを差し出しながら関係を築いていきたい、そう思うようになりました。そこで医者である自分を生かして、マタニティクラスを開いてみようと考えたんです。そうすれば、同じような状況のママたちが来てくれるんじゃないかと思ったんですね。


上海SUKU☆SUKUのはじまり

―ご自身の困りごとを、人とつながるためのエネルギーに変えていかれたのですね。

本当にどうしたらいいかわからなかったので、とりあえず「医者」という枠組みを使って、社会とつながろうとしたんです。でも、つながりたいと思っても向こうからはなかなか来てくれない。だから自分で始めるしかないと思って、当時所属していたクリニックでマタニティクラスを始めることにしました。最初は助産師の方に協力していただいて。その後、中華圏で長く生活していた看護師さんが香港から引っ越して来られて、彼女にも協力していただけることになりました。

―最初から素敵な出会いに恵まれたのですね。

そうですね。それでマタニティクラスを続けているうちに、参加者のママたちのグループチャットができたんです。マタニティクラスでは医療的なことしか扱いませんが、チャットでは粉ミルクの話題や子どもの服の話題など、いろいろな話ができるので。それをいつしか参加者以外のママたちにも開放することにして、「上海すくすく広場」と名付けました。

―今では上海に暮らす千人以上のママたちが集うコミュニティ、「上海SUKU☆SUKU」のはじまりですね。

はい。ちなみに先ほど話した看護師さんというのが後藤由美子さんという方で、今でも一緒に「上海SUKU☆SUKU」のコミュニティを運営しています。彼女ともよく話すのですが、「上海SUKU☆SUKU」のコミュニティを大きくすることが私たちの目的ではないよね、と。私たちがやりたいのは、やっぱりまず困っている人とつながること。そしてそのつながりの先に、彼女たち自身も社会の一部なんだということを再確認できるような、そんな展開があれば理想だなと個人的には思っています。

上海SUKU☆SUKUのウェブサイトより抜粋


―困っている人に直接届いて、その人の生活が少しでも良くなればという考え方は、どこか医療にも通じるものがあるように感じます。そんな上海SUKU☆SUKUは、先生にとって一言で表すとどのような場でしょうか?

「ほっと安心できる場」ですね。行けばいつでも誰かに会える場所。上海にいる女性たちのなかには、駐在帯同など予期せぬ事情でこちらへ来ることになった人もたくさんいます。海外でゼロから生活を作り上げ、それを維持していくだけでもたくさんの体力や知力を使います。だからまずは、ここに来ることでほっとひと息ついてほしい。そして誰かとつながることで安心感を得てほしい、ということがひとつ。

さらに言うと、主役はあなた自身、という思いがあります。人が集まって生活していると、そこにはおのずとチャンスも生まれます。たとえば何か役割が生じて、それぞれが特技を活かせるような。だから何かやりたいことがある人や、自分を活かせる場所を探している人は、ここを土台にしていろいろチャレンジして欲しい。「上海SUKU☆SUKU」がそういう場になれば、という思いもあります。

最初にグループチャットを作ったときも、メンバーの方に「フライヤーを作れる方、いませんか?」と聞いたら、「昔、仕事でやっていました」という方がいて。そうやって仕事を分担してもらうと、逆に喜ばれたり、私たちも助かったりする。いろいろな力やスキルを持った方がいるので、たとえお金にならなくても、何かしら力を発揮できる場所を提供できたらいいなと思っています。

―女性を応援したいという気持ちに加えて、エンパワメントしたいというメッセージも感じます。ただ支援するだけではなく、それぞれが本来の力を生かして、望む生活をつくっていくきっかけになればという。

まぁそういった励ましは、私個人の勝手なエゴかもしれませんけれど。そこまで望んでいない人ももちろんいると思いますし。でも自ら行動することで見えてくる世界もあるし、自分自身が自由になれる面もあると思うんです。実際に、千人の参加者がいるなかで、主体的にいろいろな活動を生み出す人も増えてきています。妊娠や出産というライフイベントは、仲間を見つけやすいタイミングでもありますからね。

―そんなコミュニティを運営する側のお立場というのは、どんな感覚なのでしょうか。

実は、私自身は「運営している」という感覚はあまりないんです。私が運営しているというよりも、一人ひとりが主役。この広場に集うそれぞれの人が、少しずつ何らかの形で関わってくれている、そんなイメージです。運営側があまり理想を持ちすぎると、エゴが生じてそこからストレスが生まれることもありますしね。信じて期待せず見守ることが大切なんじゃないかなと思います。子育てにも通じるところがありますよね。


ひとりの女性が「チーム育児」を実践するには

―先生のお話を聞いていると、一人の女性が本来の力を取り戻し、社会のなかで子育てをしていけたら理想的だなと感じます。そうした子育てを実践していくためには、まずどんなところから始めればよいでしょうか。ひとりの女性が孤立せず、社会とつながりながら子育てをしていくためには、どんなステップが必要だと思われますか。

まずは、「一人で抱えなくていい問題なんだ」と自覚することからだと思います。そして、アウトソーシングできることは積極的に頼ってほしいですね。たとえば家事代行は、上海だと比較的利用しやすいですし。食事もデリバリーを活用するとか。中国人の女医さんと話していると、「ご飯って自分で作るの?」と驚かれることもあります。「買えばいいじゃない」と。一人でするものじゃないよ、という価値観が共有されている気がします。

私自身は、さすがに毎日デリバリーでは済ませられないところがあるのですが、ピザを取る日だってもちろんあります。まずは、自分が頼れそうな部分に気づくこと。そして自分が本当に大切にしたいことだけを残して、あとは思いきって手放していくのがいいと思います。

―大胆に手放す勇気を持つ、ということですね。

そうですね。うちも子どもの成長の過程で発生する課題にその都度向きあいながら、その時々で大切だと思うものだけを残してきました。一つひとつの選択が正しかったのか、その時点では確証が持てないことも多いけれど、最近の娘たちの姿を見ていると「これでよかったな」と思える面もあります。長女は今年18歳になりましたが、自分自身を信じる力や、積み重ねてきたものに対する確かな自信が育っているように感じます。究極的には、親と子どもが同じ屋根の下で暮らしているというだけで、大きな安心感を与えられているのではないでしょうか。

―親が外からのリソースをうまく取り入れたり、周囲を頼る姿を見せることは、子どもにとっても良い影響があるということですね。

そう思います。だから皆さんが「手放す」ことは、決して完璧さを失った子育てではなくて、むしろ子どもに選択の自由を与えることにもつながる。とくにお子さんが女の子の場合はそう感じますね。それに子どもの年齢が上がるにつれて、親以外に親しい人がいることの重要性はどんどん増していきます。親はいつでも全力でサポートするけれど、10代にもなると、それが少し重たく感じられることもあるじゃないですか。そんなときは、むしろ親ではない誰かがそばにいるほうがいい場合もあります。

―小さな子どもを育てているうちは、なかなか気づきにくい視点ですね。

そうですね。実は今年、上海でいろいろな人に関わってもらってよかったなと感じる出来事がありました。私の父はいまも現役の脳神経外科医なのですが、アメリカの学会に招待講演で呼ばれて、母が同行できなかったので、代わりに娘を一緒に行かせてみたんです。

そうしたら帰国後、父から「ああいう子によく育てたね」と言われて。国際学会だったので、国際的に活躍している医師から修行中の熱心な若い医師まで、さまざまな立場の人がいたと思うのですが、そうした場でも臆せず、礼節をわきまえながら自分を表現できていた、と。上海でいろいろな立場や人種の人たちと関わりながら育ってきたことが、そうしたふるまいや自信につながったのだと思いますが、父の目にもそのように映ったと知ったとき、娘の成長を実感しました。


家族から受け継いだ「柱」

―素晴らしいエピソードですね。ここまでお話を伺ってきて、先生はお仕事においても子育てにおいても、相手への信頼をとても大切にされているのだと感じました。一人ひとりが持つ力に気づき、それを開花させながら、それぞれの人生を生きてほしいというメッセージが伝わってきます。それは言い換えれば、一種の愛情とも言えるように思います。松本先生にとって、愛情とはどのようなものですか。

「親を大事にする、子どもを大事にする、あらゆる人を大事にする」。そうした価値観を、私は自分が育った環境のなかで受け継いできたのだと思います。私にとって、それは人生の柱のようなものです。なにかに迷ったりピンチに立たされたときには、そこに立ち戻ればいい。

私も上海に暮らすなかで、勤務中に突然公安から拘束されるなど、大きなピンチに直面したことがありました。当時の所属機関の事務手続きに不備があったようなのですが、独房に隔離されている最中は本当にどうなってしまうのだろうと思いました。でも、たとえ何もかも失ったとしても、最後は家族から受け継いだその柱に戻るしかない。そこに立ち戻ることができれば、きっと大丈夫だという思いで過ごしました。

―あまりに想像を絶する状況で、ただただ言葉を失ってしまうのですが……。そんな場面でも先生の心を支えていた価値観が、まさにその「柱」だったのですね。極限の状況にあっても、最後に立ち戻れる場所があるというのは、大きな支えだと感じます。

そうですね。そういう極端な経験をすると、見えてくるものがありますよね。子育ても、普段はそこまでの非常事態は起きないかもしれませんが、日々さまざまな試練があるものだと思います。ピンチになると自分も精一杯になりますが、そんなときこそ、自分が本当に大切にしたいものや「こう生きたい」という感覚が浮かび上がってくる。そこだけを拾い上げて、生きていく。そんな感じでしょうか。

―先生は、世の中の女性の力を深く信じていらっしゃると同時に、ご自身に対しても強い信頼を持っておられるのですね。その信頼が、どんな場面でも先生を支えてきたのだと感じました。その原点はどのようなところにあるのでしょうか。

親が愛情を注いでくれたのだと思います。私は4人兄弟の2番目なので、愛情も4分の1だったかもしれませんが(笑)、自分の記憶のなかでは、十分すぎるほど愛してもらった感覚があります。「あなたはそのまま生きていけばいい」。そんなメッセージを、折に触れて受け取ってきた気がします。

だからこそ、子育てでどれだけ手を抜いたとしても、そこだけは自分の子どもにも伝えていきたいですね。そうすればどんな困難や逆境があっても、自分で道を切りひらいていく力を身につけることができるのではないでしょうか。その原動力になるものが、愛情なのだと思います。


取材・文・編集/岸 志帆莉

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