【後編】大変は「大きく変われるチャンス」 ―乳がんと母子生活を経て見えてきた道

丸の内の会社に勤務する高橋智絵さん。私生活では二児のママです。

夫の転勤により、平日はひとりで子どもを育てながら働いてきた高橋さん。2021年には乳がんが発覚し、多くの人々に支えられながら回復までの道のりをたどってきました。現在は夫の海外転勤にともない、一時休職して家族でシアトルの隣町ベルビューに暮らしています。

多くの縁に支えられた日本での母子生活、そして高橋さんの現在について、二回にわたって振り返っていただくインタビューの後編です。

家族でお出かけの際の一コマ。シアトルのモノレールにて


突然の乳がん発覚

「二人目の育休中、母乳マッサージに通っていたとき、担当の方から乳がん検診を勧められました。帰宅して母にその話をすると、『とにかく早く検査した方がいい』と。それがなければ病院には行っていなかったと思います。全然痛みもないし、自分では気づかなかったので」


病院でひととおりの検査を受けたあと、医師から乳がんの告知を受けました。突然のがん発覚は、高橋さんに深い衝撃を与えました。


「まさか自分が、と思いました。ありきたりだけど、自分の人生にも終わりがあるということを強く意識しました。子どもたちとわいわい過ごしている今の日常がいつかなくなってしまうかもしれない。成長した姿はもう見られないかもしれないと思うと、悲しさと悔しさで涙がこぼれました。がんになったという事実より、子どもたちの成人式を見られないかもしれないと思うことがつらかったです」


乳がんの発覚をきっかけに、高橋さんの心境に変化が起こりました。


「それまでは子どもたちをこんなふうに育てたいとか、こんな暮らしをしたいとか、未来についてあれこれ思い描いていました。でもそれができないかもしれないという境地に立ったとき、今を大事に生きなければならないと思いました」


周囲に支えられながら過ごした日々

そうして高橋さんは回復に向けての道のりを歩みはじめます。子どもたちのために心がけていたのは、できるだけ以前と変わらない日常を送ることでした。


「子どもたちの心をざわつかせないよう、できるだけ普段通りの生活を心がけていました。とにかく生活リズムを変えないこと、不安にさせないこと。家族をはじめサポートしてくれる方々と連携しながら、どんなときも子どもを家族の一員にして、たくさん話をしていました」


まだ右も左もわからなかったころ、そばで寄り添ってくれた人々の存在は大きな支えになりました。


「入院するあたりから、子育ては一人じゃできないと感じて、まわりを頼るようになりました。両親に保育園の送迎をお願いしたり、義理の両親に子どもたちをケアしてもらったり。東京に住む兄の家族に入院中の洗濯物の対応をしてもらうこともありました。あとは保育園の先生方やママ友にも事情を話しました。子どもたちが寂しがったりいつもと様子が違ったりするときがあればお願いしますと伝えると、みんな『任せて』と言ってくれました。とてもうれしかったし、心強かったです。不安が大きいときに会いに来てくれた友達の存在も支えになりました」

おじいちゃんとおばあちゃん(高橋さんの義理のご両親)に遊んでもらう子どもたち


入院中は各分野の専門職の手厚いケアを受けながら過ごしました。


「その道のスペシャリストという方々にたくさん出会いました。がん相談を専門とする看護師さんや、チャイルド・ライフ・スペシャリスト(※子どもに心理的支援を提供する専門職)の方など。主治医の先生にも恵まれました。毎日朝と晩に病室に来られては、「なにか変わったことない?」と様子を尋ねてくださいました。手術着のまま「おはよう」と挨拶だけしに来てくださることも。忙しいなかたった一言のためにわざわざ立ち寄ってくれるのはうれしかったし、こんなにも患者と向き合ってくださるのかと感動しました」


他の患者たちとの交流も支えになったと振り返ります。入院中も高橋さんらしく、特技の「ナンパ」術を駆使して交流の輪を広げました。


「手術の前日、検査室の前に並んでいたときに『いつ手術ですか?』と会話がはじまって、『私も明日なんです。連絡先交換しませんか?』という感じですぐにLINEグループができました。同じ日に入院した患者さんたちとは今でも交流が続いています。30代から60代の女性たちで、それぞれ年代はバラバラなのですが、みんなでよくおしゃべりをしました。毎晩8時に病院の窓からディズニーリゾートの花火を鑑賞したり、クリスマスには『女子寮みたい』といってみんなで盛り上がったり。それぞれ退院するときは、喜ばしいはずなのに『卒業みたいで寂しい』と言っていましたね。同志に出会えた喜びというか、互いに気持ちをわかりあえる安心感を抱いていたのかもしれません」

病院に飾られていたクリスマスツリー


再建手術からの緊急入院

その後、高橋さんは手術によって失われた乳房の再建手術に臨みます。手術自体は無事に終わったものの、ほどなくして40度を超える高熱が高橋さんを襲いました。


「再建した部分が感染してしまい、高熱で注射も打てない状況になりました。再建した部分を取り除くため、急遽手術を受けることになりました」


緊急を要したものの、手術は無事に成功。手術の後、面会に訪れた主治医から出てきたのは高橋さんにとって意外な言葉でした。


「ごめんね、と謝られたんです。無理に二度も手術をさせてしまって、再建なんてしないほうがよかったね、と申し訳なさそうに謝罪されました。なぜ謝ってこられるのだろう、とびっくりしてしまいました。そのとき咄嗟に口から出たのは、『いえ、すべて経験ですから』って。自分でそう言いながらはっとしたのですが、私は幼いころから何事も自分で経験しないと納得できない人間だったんです。経験したからこそ得られる実感というのは、自分にとってとても大切なことだと改めて気づきました。今回、再建手術がうまくいかなかったことで、自分自身の胸や、胸があることの喜びなど、失ったものも確かにあります。でもこの経験によって得られたものもあります。経験したからこそ得られたこの実感は、今後の自分をきっと支えてくれると思っています」


この二回目の入院中、高橋さんにはもうひとつの印象的な出会いがありました。


「廊下を歩いていたとき、70代くらいの女性患者の方と出会ったのですが、彼女にかけられた言葉が強く心に残っています。会話のなかで『子どものことが心配なんです』と話したら、『それよりもあなたの人生を大切にしてね』と。『子どもがいても、あなたはあなただから』と言葉をかけてくださいました。この言葉にはっとして、子どもたちだけでなく自分自身のことを顧みるきっかけになりました」


高橋さんの現在

こうした出会いの一つひとつが、高橋さんの人生観に影響を与えていきます。とくに入院中に目の当たりにした医療従事者たちの仕事ぶりは、高橋さんの職業観に変化をもたらしました。


「がんを経験したことで、後悔のない人生を生きたいという思いが強くなりました。そんななかで主治医の先生をはじめ、医療職の方々の仕事ぶりを目の当たりにし、自分も彼らのように誇りをもって働きたいと思うようになりました。以前は与えられた仕事を淡々とこなすことにもっぱら専念していたのですが、もっと楽しみながらいきいきと取り組めるような仕事を今の会社で見つけたいと思い、総合職を目指すことにしました」


そんな高橋さんの挑戦は実り、晴れて総合職への転換を果たします。さらに私生活でもあらたな目標が見つかりました。


「もともと『人に寄り添う』というのが自分のテーマだったのですが、医療職の仕事ぶりを見たことで、人に寄り添うということについてさまざまな気づきを得ました。以来、同じく乳がんや女性系の病気になった人の相談窓口として、彼女らの思いに向き合う活動を続けています。この活動をするようになってあらためて感じたのですが、同じ病気にかかったとしても、状況は一人ひとり異なります。不安を抱えながら相談してくれた人のために、自分らしく寄り添える人であり続けたいです」

現在暮らすアメリカの幼稚園で。息子のクラスで絵本の読み聞かせをしているところ


千葉での母子生活に、乳がんの発覚。ままならないことも多い日々のなかでたどり着いたのは、「自分の力で変えられるものごとに専念する」ということでした。


「生きていると自分の力では変えられないことにも遭遇します。それでも、そのなかでできることに専念することが大切だと思っています。変えられないものより、変えられるものにフォーカスする。身のまわりの環境や心の持ちようなど、自分でコントロールできる物事は積極的に変えていきたいと思っています。むしろ大変なときこそ現状を変えるチャンスです。まわりが『大変だ』と思う状況のときこそ、本当にそうなのか考えたい。チャレンジや試行錯誤を常に面白がることができる自分でいたいです。生きていると大変なことはあるけれど、大変は『大きく変われるチャンス』だと思っています」

100人で子育てをすることにしました。

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